大人と子供と現実と非現実。

つづきです。


作品中の主人公が「非人間の女の子」と「人間の女の子」の間で
揺れる話の面白さについて昨日の日記で書いた。


これをもうちょっと視野を広げてメタ的に解釈してみる。
現実にその作品に触れている自分の視点で考えて、
作品の主人公にとっての非人間と人間の対比を
読者である自分にとってのフィクションと現実の対比に置き換えてみる。


作品世界内で主人公として人間を選ぶという行為を現実にフィードバックし、
現実世界での自分が作品世界を楽しむだけで終わらず現実に目を向ける、
というシステムを含んだ物語と考える。


新世紀エヴァンゲリオン」はモロにそういう作品だった。
アニメばっか見てないで現実見ろよ、というメッセージを露骨に強烈に含んでいた。
綾波レイ惣流アスカラングレーとの対比である。
たとえば同じガイナックス製作の「フリクリ」なんかもそうだ。
あれは雑誌*1のインタビューで監督が「ネクスエヴァ」を謳っていたけど、
まさにそういう物語で、非現実と現実の狭間で揺れ動く話だった。
異星人と女子高生と同級生の対比関係である。


これらは本来は特別おたくをテーマに作られた作品ではなく、
子供と大人の微妙な境界線、思春期をテーマに据えた作品である。
でも僕はここにおたくが二次元作品に見出す執着心と現実とのギャップを感じた。
非人間と人間の対比にはそういうギャップが見えた。
非人間の永遠性というのは二次元作品の永遠性の象徴であり理想の具現化でもある。
対して人間の有限性やあやふやさは現実に起こる諸問題であると考えられる。


逆に怖いのがこれを意識せずに作られている作品。
または意識した上で商業的に利用しようとしている作品。
「非人間でもいいじゃない」的なメッセージを安易に受け取るということは
結果として二次元作品に没頭し愚かな消費者と成り下がる選択になるのではないか。
過敏に受け取りすぎかもしれないが、僕はその選択だけはしたくない。


擬人化など非人間的なモチーフが最近増えつつあり肯定される風潮がある気がする。
思考停止に陥りそういうものを安易に受け入れるというのもどうかと思う。
萌えの産業化にも伴ってそういう手法は多くなっていると感じるが、
自分の立つ位置を常に考えるべきであると感じた。


大人的な判断で言えば現実を選ぶべきである、というのが正しいだろう。
だが本当にそれが本人にとって正しい判断なのかは分からない。
でも僕は大人になるという選択をしたいなぁ、と思った。


多分これからも今までどおりにアニメやマンガを見ると思うけど。
まあそんな大げさに考えることじゃないよなー、とも思うし。
萌え、そんなに悪くないと思うよ?という自分もいるし。
実際いまもマクロスのトリビュートとか聴いてるし。
でも何も考えずにそういうものを享受し続けるのは怖い。


相変わらずまとまっていないんだけど、これでひとまず話は終わりです。